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米沢とゆかりの武将たち


米沢は、四方山に囲まれ、地元では置賜地方と呼ばれる山形県南部に位置する地方都市。
西に新潟県下越地方、南部に福島県の会津地方、南東部に福島市、北東部に宮城県白石市に隣接する立地。
現在では、田畑や果樹園が目立つ長閑な風景と自然に恵まれたエリアとなっている。
ここは、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、さまざまな武将たちの活躍の場となったことは、皆さんご存知の通り。
特に、記憶に新しいところでは、2009年のNHK大河ドラマ「天地人」では、米沢藩・初代藩主の上杉景勝の右腕として活躍した、家老・直江兼続(かねつぐ)の生涯を通して、当時の武将の勢力図を見ることができた。

小野川温泉は、古くから米沢の奥座敷と呼ばれる湯量豊富な温泉地。
硫黄やラジウムを多く含む泉質は、戦国時代はまさに温泉病院の役目を果たしていた。
その良質な温泉に恵まれたこの土地では、世に有名な武将たちが活躍。
それらを簡単ではあるが、ご紹介させていただく。

まずは、独眼竜の異名を持つ伊達政宗(1567~1636年)から。
輝宗の嫡子として、米沢城で生まれる。
18歳で家督を相続すると、次々と他国への侵略を企てる。
天正17年(1589年)には東北地方の覇権を賭けて、すでに関白・豊臣秀吉(1537~98年)傘下の大名となっていた会津の蘆名義広・佐竹義宣の連合軍と戦う。
政宗はこれに勝ち、蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配。
さらに兵を進め、このとき政宗は、本拠地である山形県の南部から、現在の福島県の中通り地方と会津地方、そして、宮城県の南部まで支配下におき全国的にも屈指の領国規模を築く。
しかし、天下はすでに豊臣秀吉のものとなり、政宗は会津領などを没収された。
天正19年(1591年)には、米沢城から岩出山城(現在の宮城県北部の大崎市付近)に転封。この年をもって、政宗と米沢の縁は切れることとなる。
その後、徳川家康(1543~1616年)の時代になり、政宗は初代仙台藩主となった。

米沢は、伊達氏に代わって会津に封ぜられた蒲生氏郷(1556~95年)の支配するところとなり、重臣・蒲生郷安が米沢城主となった。
慶長2年(1597年)には、氏郷の子・秀行は下野国宇都宮に移封となり、会津には越後国より120万石で上杉景勝(1556~1623年)が入り、重要拠点である米沢城主には重臣・直江兼続(1560~1619年)を置いた。
この越後から会津(山形県南部、宮城県の一部、新潟県の佐渡も領地)への国替えは、伊達政宗はじめ東北諸大名と、関東の徳川家康をけん制・監視する役目を負っていたと言われる。



話はさかのぼる。
直江兼続は、上杉景勝の小姓として幼い頃から仕えていた。
謙信急死後の天正6年(1578年)の御館の乱では、景勝方に就き、次の藩主とさせた。
景勝は、謙信の実姉の子であった。
天正9年(1581年)に、景勝の側近である直江信綱が殺害される事件が起き、景勝の命により、跡取りのない直江家を継ぐ事となった。
以後、兼続は20代前半という若さながら、上杉の執政となる。これは亡くなる直前まで続く。
類まれなる才能の持ち主である事を景勝が見込んでの抜擢人事であった。
兼続は、晩年の謙信から「義」を重んじる考えを学び、その後の生き方も実践していった。
織田信長からの執拗な攻撃により、上杉家滅亡の危機もあったが、本能寺の変(1582年)により窮地を脱し、その後は、豊臣政権下では、景勝を五大老の一人に押し上げるなど、政治的手腕を発揮した。

天正12年(1582年)、主家である武田家を失った真田昌幸(1547~1611年)より、家康の勢力拡大に危機感を覚え、後ろ盾を上杉家に担ってもらうため、次男の真田幸村(信繁)が人質として送られてくる。
景勝は、幸村(1567~1615年)を気に入ったらしく、所領まで与えるという好待遇だったという。
昌幸に出した「九か条の起請文」では、真田側に謀反の噂があろうと、景勝は惑わされない、情をかけると記されていたことからも厚い保護を受けていたとみられる。
また、兼続も幸村を弟のように可愛がった。
その人質時代に、上杉家では何よりも「義」を重んじ、同盟を結んだ以上は相手をとことん信じるという考え方を教わることになる。
人は利によって動き、裏切るものという真田家の教えを受けてきた幸村にとっては驚きと同時に新鮮なものであったに違いない。
謙信の「義」の心は、直江兼続を通じて真田幸村へと伝えられたとも言える。
天下の情勢が決まっていた大坂の陣でも、豊臣方で戦い、徳川方への寝返りを勧められた幸村であったが、最後まで徳川家に徹底抗戦をする。
負けると分かっている戦いでも「義」を貫き、豊臣家のために戦った真田幸村の中には、直江兼続からの教えが残っているような気がする。






景勝が会津に移ると、その頃から前田慶次郎(生没年不詳)が、上杉を頼るようになった。

鶴ヶ城(旧若松城)
上杉景勝が城主をしていた会津若松城(現在の鶴ヶ城)は(文献史上では黒川城、会津城とされることもある)、現在、本丸を「鶴ヶ城博物館」として歴史資料を展示公開しています。 また 城の周りに広がる鶴ヶ城公園は石垣や桜が美しい、市民にも人気の高いスポットとなっています。
慶次郎は、加賀藩主・前田利家の兄・利久を養父に持つが、1590年頃には、前田家とは縁を切りっていた。
慶長3年(1598年)頃から関ヶ原の戦い(1600年)までの間に上杉家に仕官し、新規召し抱え浪人の集団である組外衆筆頭として1000石を受けたという。
いたずら好きとして知られる慶次郎には、こんなエピソードもある。
ある時、豊臣秀吉が京都・伏見城に各大名を招き宴が開かれたが、この宴の会場に前田慶次郎が紛れ込んでいた。
宴もたけなわになった頃、慶次郎は末席から猿面をつけ手拭いで頬被りをし、列席している大名達の膝の上に座っては猿真似をやるという暴挙にまで至ったが、大名達は宴の余興ゆえに咎める者も怒り出す者もいなかった。
しかし、上杉景勝の前に来ると慶次郎は膝に乗ることを避けた。
慶次郎は後に「景勝の前に出ると威風凛然としていてどうしても座ることが出来なかった」と語ったという。
また、「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおいて外にあるまい」と後に語ったということから、義を貫く人物は景勝をおいて他にはいないと見込んでの、慶次郎なりの敬意を示した行動だったとも言われている。

慶次郎は、関ヶ原の戦いと同時期に起こった長谷堂城の戦いでは、兼続の自害を思いとどまらせ、陣の撤退に大いに貢献したとされる。
西軍敗退により上杉氏が30万石に減封され米沢に移されると、これに従って米沢藩に仕え、米沢近郊の堂森に隠棲した。
その後は兼続とともに「史記」に注釈を入れたり、和歌や連歌を詠むなど気ままな生活を送ったという。

ここで、再び直江兼続に戻らせていただく。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭するようになる。
会津領内の城普請を謀反の証しと言明された兼続は、その返書として、許可なしに有力大名との縁組を図り、勢力拡大を図る家康を糾弾する、いわゆる「直江状」を家康に送り、激怒させた。
それをきっかけに、家康は兵をあげ、会津に侵攻するが、会津到着間近で、石田三成が上方で兵をあげた。
取って返して家康は、三成と関ヶ原で激突することになるわけである。
兼続は、東軍の最上義光の領地である山形に総大将として3万人の精鋭を率いて侵攻した。

上杉神社(米沢城跡地)
伊達正宗の生誕地としても知られる現在の米沢市にあった米沢城は、1873年(明治6年)に取り壊され現在「松が岬公園」として、観光客や市民の憩いの場となっています。四方が水堀になっており、200本も のソメイヨシノが堀を囲っています。水上に映る桜が美しい、県内屈指のお花見スポットです。公園の中央にある上杉神社は、上杉謙信と上杉鷹山を祀り、1876年(明治9年)、本丸跡に建立されました。 最近ではパワースポットしても注目されています。
大軍による力攻めという短期攻略戦法を用いながら戦闘は長引き、9月29日に関ヶ原敗報がもたらされるまで、上杉軍は約2週間長谷堂城で足止めを受け、ついに攻略できなかった。
しかし、関ヶ原の本戦では、あっという間に家康率いる東軍が勝利し、その報を聞いた兼続は、撤退を余儀なくされた。
その後は、家康へ降伏し、上杉家存続への動きをすることになる。
結果的には、会津を中心とした120万石の大大名から、米沢30万石の小大名への転封を命じられ、困窮極まる藩経営を兼続は担うようになる。
兼続は新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れた。
米沢城下を流れる最上川上流には3キロメートルにわたって石が積まれ、川の氾濫を治めるために設けられたこの堤は「直江石堤(なおえせきてい)」と呼ばれている。
また、新田開発に努め、表高30万石に対して内高51万石と言われるまでに開発を進めた。
また、町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。
兼続の死後、直江家は断絶するが、少しでも藩の財政面を助けるため、減封の責任をとっての行動とも言われている。
兼続らしい、人生のまとめ方とも言える。
これら、兼続の藩政改革の基礎は、後の米沢藩の中興の祖・上杉鷹山(1751~1822年)に受け継がれて行く事となる。
実は、鷹山が、兼続200回忌法要に香華料を捧げたという事から、兼続が再評価されるようになった。
それまで兼続は、上杉家を石高4分の1に転落させた張本人「奸臣」として扱われていたとの事。
つまり、上杉鷹山が兼続を手本に藩政改革を行なう事によって、直江兼続の評価が高まったという事なのである。