戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家老。
永禄3年(1560年)に樋口兼豊の長男として生まれ、永禄7年(1564年)謙信の養子となった上杉景勝に従って春日山城に入る。
景勝の命で直江景綱の娘で直江信綱の妻であったお船の方の婿として結婚(再婚)し、跡取りのない直江家を継ぐ。
豊臣政権時代
天正15年(1587年)、新発田重家討伐で武功を挙げ、天正16年8月17日(10月7日)には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の姓を授けらる。
慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封されると、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領を与えられている。
秀吉が死去すると、家康と対立。
関ヶ原本戦が行われ本戦で西軍が敗れると、上杉軍は撤退を開始したが追撃した敵と激戦になるが、米沢への撤退に成功した。この撤退戦は語り草となり、兼続は敵である義光、家康にも称賛されたという。
江戸時代にはいり、
慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪する。家康から罪を許された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許された。
その後は徳川家に忠誠を誓い、米沢藩の藩政の基礎を築いた。
元和五年(1619年)12月19日死去60才
初め米沢市の徳昌寺に埋葬。その後、徳昌寺と米沢市の林泉寺の間に争いが起こり、敗れた徳昌寺が廃絶したため林泉寺に改葬された。
主君である上杉景勝を上杉謙信死後から補佐し引き抜き行為を幾度も断るなど、忠義に厚い名将として知られている。
妻・お船の方との夫婦仲はとてもよく兼続は生涯側室を1人ももたなかった。 |